タスマニアの視察旅行で思う国の成り立ち、国名「オーストラリア」の由来って?
誰がいつどうして流刑に?
英国がオーストラリアへ入植を始めたのは1788年で、この年に初の都市としてシドニーが誕生。そして1804年(※1803年とも)には今回の主役、タスマニア州のホバートが作られた。そう、ホバートはオーストラリアのなかで2番目に古い州都なのだ。これも今回の視察でオーストラリアの成り立ちを調べてみたくなった理由のひとつ。ちなみに3番目は1829年のパースらしい。
流刑地としての役割も大きかったのだろう。タスマニア州の面積はオーストラリアの国土の0.9%しかないのに、オーストラリアの囚人遺跡群として世界文化遺産に登録されている11の史跡のうち実に5つが州内に存在する。残りはニュー・サウス・ウェールズ州が4、西オーストラリア州とノーフォーク島が1つずつだ。
今回の視察ではホバートの中心部から車で10分くらいの距離にあるカスケーズ女子工場を訪問。女性用の刑務所だ。1788年から1868年にかけて英国とアイルランドからオーストラリアへ送られた囚人の数は16万2000人超で、女性はその15%強にあたる約2万5000人。約半数がタスマニア州に5つあった女子工場に収監された。
カスケーズ女子工場では、そうした施設内での厳しい日々に思いをはせる7種類のツアーを用意。当時の残酷さ、凄惨さ、理不尽さはサライ.jpの記事が生々しく伝えてくれているが、今回現地で知ってびっくりしたのは罪の軽さ。
なんとなく、移送だけで何ヶ月もかかる島流しだしよほどの極悪人ばかりだろうと思っていたら、実際にはその多くが貧困にあえいでパンを盗んだ、というくらいの罪によって流刑になったのだった。受刑者の実に4分の3は暴力を伴わない窃盗、また半数以上が初犯だったそうだ。
そしてそんなことを調べていたら、2008年当時の豪首相のご先祖様はロンドンの路上生活児で衣類をカツアゲした罪でなんと死刑宣告された後に減刑されオーストラリア行き、曽々祖父も砂糖を盗んだだけで7年間オーストラリアへ、というAFPの記事にも行き着いた。今では考えられない厳罰主義には驚くばかり。
なお、流刑となった囚人たちは植民地を経営するための労働力として送り込まれており、現在のようにオーストラリアが発展する原動力となった存在と言える。上記のAFP記事も囚人遺跡群を世界遺産登録しようとするさなかのものだが、受刑者を先祖に持つことが名誉になりつつあると書かれているのが興味深い。
アボリジナルピープルの視点にも光
ところで、ここまで書いてきたのはすべて白人の歴史であり白人側から見たオーストラリアだが、実際には本土にもタスマニアにもアボリジナルピープルが何万年もの間住み続けていた。国土や地域の呼び方だって各グループが独自の呼称を持っていた。ホバートは「ニパルナ」、タスマニア島は「ルトルウィタ」が本来の名前だ。
植民地化以降は差別、迫害が各地で長く続き、1967年までは人権さえ認められず。争いも当然起き、なかでもタスマニアでは1824年ごろにオーストラリアの歴史上最も大規模な紛争「Black War」が発生。視察ではタスマニアのアボリジナルピープルであるパラワ族の子孫が運営するウォーキングツアーにも参加し、1832年にこの紛争を終結させるためにパラワの人々が進んだ足跡をたどった。
オーストラリアでは現在アボリジナルピープル復権の施策が様々な場面で進められているところで、TAも土地のアボリジナルネーム併記などの取り組みを推進。日本人にとっては実感を持ちにくい話題ではあるが、例えば突然エイリアンが日本を侵略しにきて自分の住む街や故郷の名前を勝手に変えて植民地にし家族や友人を迫害したとしたら。そうやって想像してみると是正の意義も見えてくるし、サポートする意味も感じられるのではないだろうか。