新型インフルエンザ時代の旅−旅行医学とヘルスツーリズムの可能性
インフルエンザの流行期である冬を迎えたが、懸念していた新型インフルエンザによる旅行手控えの大きな動きは今のところはみられない。ただし、新型インフルエンザにより旅行需要が停滞した今年、これ以上の影響を避けなければならず、そのためには正しい対策と啓蒙が必要になる。11月24日に日本ヘルスツーリズム振興機構が開催したシンポジウムでは、日本渡航医学会副理事長で渡航医学センター代表取締役、渡航医学センター・西新橋クリニック院長の大越裕文氏が「新型インフルエンザ時代の安心・安全の旅を考える」と題した特別講演を実施。実際の旅行前に有効な対策と必要な携行品から、今後の感染症への対策の必要性が話された。
機内感染のリスクは低い
今回の新型インフルエンザの特性をまとめると、病原性(毒性)は季節性インフルエンザよりやや強い。感染力は2倍から3倍強く、主に子どもや若年者を中心に感染が広がっている。40歳以上の感染率は8%に過ぎない。一部の感染者は重症化するが、抗インフルエンザ薬の効果は確認されており、ワクチンの接種もはじまっている。また、感染経路は国内に広がっており、海外旅行が感染の原因となるわけではない。
「だが、それにも関わらず旅行業界は大打撃を受けた」と大越氏。観光庁が2009年5月27日から6月2日にかけて旅館・ホテル業を対象に実施した、新型インフルエンザ影響調査によると「かなりの影響があった」と答えた施設が43%、「若干の影響があった」と答えた施設が46%。観光客はもちろん業務渡航の自粛や修学旅行のとりやめなどでキャンセルが相次いだ。さらに、メディアで機内検疫や水際封じ込め作戦の映像が流れた影響もあり、日本人渡航者が減少したのはもちろん、訪日外国人も減少した。
しかし、実際には新型インフルエンザの感染リスクを軽減するために旅行を自粛する必要はなかったと大越氏はいう。たとえば感染リスクが高いと懸念された航空機内だが、2009年8月の成田検疫所報告によると、約20万人に機内検疫を実施して感染が判明したのはわずか10人。感染者の周辺に座るなどした濃厚接触者に機内感染はなかった。
ちなみに同期間中に国内では500人が感染している。機内の換気システムには0.3ミクロンの物質も99.9%捕獲する高性能フィルターが使われ、3分に1回換気する。機内感染を起こすケースはきわめて少ないのだ。WHOも航空機での旅行は特にリスクが高いわけではないとしている。つまり、海外旅行をしても国内にいても感染リスクは同じといえる。
渡航前の準備、大切なのは渡航者の健康に応じた対策と啓蒙
とはいえ、大越氏は無防備に海外旅行に出かけることをすすめるわけではない。新型インフルエンザに感染した場合、重症化する可能性のあるハイリスク者は、とりわけ渡航前の準備や渡航中の注意が必要だ。特に注意が必要なのは、喘息など呼吸器疾患、心不全など心臓疾患、糖尿病など代謝性疾患、ステロイドを内服しているなど免疫機能不全といった慢性疾患のある人と妊婦だ。
渡航前の準備としては、健康状態のチェックをすること、新型インフルエンザに限らず渡航先の感染症などの情報を入手すること、衛生用品や薬剤を準備すること、海外旅行保険への加入、ワクチンの接種などがあげられる。
大越氏が準備すべきものとしてあげるのは、衛生用品や薬剤ではウエットティッシュやジェル状の消毒液、使い捨ての紙マスク、体温計、解熱剤など飲み慣れた市販薬や常備薬など。また粉末の経口補水塩といったものも用意しておきたい。予防接種などの対策としては新型インフルエンザワクチンに限らず、渡航先の衛生状態に応じてA型肝炎、B型肝炎、破傷風、腸チフス、狂犬病などの予防接種や、旅行者下痢症やマラリアといったその他の感染症への対策が必要だ。
持病など健康上のリスクを抱えている場合はさらに準備が必要で、渡航先の感染症の流行状況や医療体制の情報を入手して渡航を判断する必要がある。適切な医療を受けられない可能性が高い地域については、感染症の流行が沈静化するまで延期も考慮しなければならない。渡航する場合には、抗インフルエンザ薬(タミフル、リレンザ)の自己治療薬を携行するほか、英文の医療情報も必要だ。
トラベルメディスンとヘルスツーリズムの必要性
旅行中の健康問題について、労働者健康福祉機構海外勤務健康管理センター(JOHAC)が大手旅行会社の添乗員206名を対象に実施した調査によると、海外で旅客の病気を経験した添乗員は98.6%。旅客を病院に連れていった添乗員は94.1%。トラブルの内訳は、カゼや乗り物酔い、怪我、高山病などのほか慢性疾患の悪化もある。感染症は比較的少なかった。健康問題の発生場所としてはホテルやバス、観光地、飛行機内などがある。国内で旅客の病気を経験した添乗員は60%。急病人は中高年と10代が多く、ほとんどが軽症だが重症例も発生している。10代には移動中の乗り物酔いが多く、50歳以上の女性には怪我が多くみられる。骨折のケースはすべて女性だ。また、脳溢血など虚血性心疾患や脳梗塞など脳血管障害による死亡例もあった。発生場所は移動中や観光中、旅館・ホテルなどとなっている。
こうした旅行中の健康トラブルに備えるには、旅行者と渡航先の情報をもとに健康リスクを評価し、それに基づき生活指導や予防接種といった手段で健康トラブルを予防し、旅行中の注意事項を喚起するなど旅行者自身による二次予防を啓蒙することが大切だ。さらに一歩進んで、渡航先で健康トラブルが発生した場合の措置まで含めた医学がトラベルメディスンだ。
トラベルメディスンが、旅行者の健康状態や身体能力といった内的リスク因子を減らすための医学とするなら、外的リスク因子を減らすのがヘルスツーリズムだ。外的リスク因子とは、移動方法や環境、滞在期間や宿泊施設、滞在中の活動、日本との時差などがあげられる。現在は旅行のスタイルが多様化していて、健康弱者がリスクの高い渡航地へ旅行するケースが増加している。「ヘルスツーリズムは健康弱者をサポートする旅行であり、トラベルメディスンとヘルスツーリズムの必要性は、今後ますます高まっていく。トラベルメディスンとヘルスツーリズムが両輪となって発展していくのが望ましい」と大越氏は話す。
旅行業界は無防備すぎ。経験を踏まえた対策ガイドラインの作成を
医学界とともにトラベルメディスンとヘルスツーリズムを発展させていく一方で、旅行業界全体での感染症への対策ガイドラインの作成も急務のひとつだ、と大越氏は指摘する。というのも、日本人は健康情報に限らずさまざまな情報をメディアに頼るが、メディアにはある一面しか見せないという弱点もある。だがその影響で、今回の新型インフルエンザ報道がひと段落した後も、旅行業界への経済ダメージは大きかった。「たとえば修学旅行が一度とりやめになると、これを復活させるには大きな労力がかかる。2003年のSARSの傷跡もいまだ残るなか、旅行業界はこれまで無防備過ぎた」と大越氏。これからは旅行業界が主体になり、感染症の予防知識を啓蒙したり、継続した情報発信が必要になるという。
そのためにも、業界全体での対策ガイドラインをいまから作成し、次の感染症の流行に備えておくことが大切だ。大越氏は最後に「旅は健康への処方箋。健康リスクを減らして、どんどん旅をすることで健康になれるヘルスツーリズムが発信、造成されることを期待したい」と講演を締め括った。
機内感染のリスクは低い
今回の新型インフルエンザの特性をまとめると、病原性(毒性)は季節性インフルエンザよりやや強い。感染力は2倍から3倍強く、主に子どもや若年者を中心に感染が広がっている。40歳以上の感染率は8%に過ぎない。一部の感染者は重症化するが、抗インフルエンザ薬の効果は確認されており、ワクチンの接種もはじまっている。また、感染経路は国内に広がっており、海外旅行が感染の原因となるわけではない。
「だが、それにも関わらず旅行業界は大打撃を受けた」と大越氏。観光庁が2009年5月27日から6月2日にかけて旅館・ホテル業を対象に実施した、新型インフルエンザ影響調査によると「かなりの影響があった」と答えた施設が43%、「若干の影響があった」と答えた施設が46%。観光客はもちろん業務渡航の自粛や修学旅行のとりやめなどでキャンセルが相次いだ。さらに、メディアで機内検疫や水際封じ込め作戦の映像が流れた影響もあり、日本人渡航者が減少したのはもちろん、訪日外国人も減少した。
しかし、実際には新型インフルエンザの感染リスクを軽減するために旅行を自粛する必要はなかったと大越氏はいう。たとえば感染リスクが高いと懸念された航空機内だが、2009年8月の成田検疫所報告によると、約20万人に機内検疫を実施して感染が判明したのはわずか10人。感染者の周辺に座るなどした濃厚接触者に機内感染はなかった。
ちなみに同期間中に国内では500人が感染している。機内の換気システムには0.3ミクロンの物質も99.9%捕獲する高性能フィルターが使われ、3分に1回換気する。機内感染を起こすケースはきわめて少ないのだ。WHOも航空機での旅行は特にリスクが高いわけではないとしている。つまり、海外旅行をしても国内にいても感染リスクは同じといえる。
渡航前の準備、大切なのは渡航者の健康に応じた対策と啓蒙
とはいえ、大越氏は無防備に海外旅行に出かけることをすすめるわけではない。新型インフルエンザに感染した場合、重症化する可能性のあるハイリスク者は、とりわけ渡航前の準備や渡航中の注意が必要だ。特に注意が必要なのは、喘息など呼吸器疾患、心不全など心臓疾患、糖尿病など代謝性疾患、ステロイドを内服しているなど免疫機能不全といった慢性疾患のある人と妊婦だ。
渡航前の準備としては、健康状態のチェックをすること、新型インフルエンザに限らず渡航先の感染症などの情報を入手すること、衛生用品や薬剤を準備すること、海外旅行保険への加入、ワクチンの接種などがあげられる。
大越氏が準備すべきものとしてあげるのは、衛生用品や薬剤ではウエットティッシュやジェル状の消毒液、使い捨ての紙マスク、体温計、解熱剤など飲み慣れた市販薬や常備薬など。また粉末の経口補水塩といったものも用意しておきたい。予防接種などの対策としては新型インフルエンザワクチンに限らず、渡航先の衛生状態に応じてA型肝炎、B型肝炎、破傷風、腸チフス、狂犬病などの予防接種や、旅行者下痢症やマラリアといったその他の感染症への対策が必要だ。
持病など健康上のリスクを抱えている場合はさらに準備が必要で、渡航先の感染症の流行状況や医療体制の情報を入手して渡航を判断する必要がある。適切な医療を受けられない可能性が高い地域については、感染症の流行が沈静化するまで延期も考慮しなければならない。渡航する場合には、抗インフルエンザ薬(タミフル、リレンザ)の自己治療薬を携行するほか、英文の医療情報も必要だ。
トラベルメディスンとヘルスツーリズムの必要性
旅行中の健康問題について、労働者健康福祉機構海外勤務健康管理センター(JOHAC)が大手旅行会社の添乗員206名を対象に実施した調査によると、海外で旅客の病気を経験した添乗員は98.6%。旅客を病院に連れていった添乗員は94.1%。トラブルの内訳は、カゼや乗り物酔い、怪我、高山病などのほか慢性疾患の悪化もある。感染症は比較的少なかった。健康問題の発生場所としてはホテルやバス、観光地、飛行機内などがある。国内で旅客の病気を経験した添乗員は60%。急病人は中高年と10代が多く、ほとんどが軽症だが重症例も発生している。10代には移動中の乗り物酔いが多く、50歳以上の女性には怪我が多くみられる。骨折のケースはすべて女性だ。また、脳溢血など虚血性心疾患や脳梗塞など脳血管障害による死亡例もあった。発生場所は移動中や観光中、旅館・ホテルなどとなっている。
こうした旅行中の健康トラブルに備えるには、旅行者と渡航先の情報をもとに健康リスクを評価し、それに基づき生活指導や予防接種といった手段で健康トラブルを予防し、旅行中の注意事項を喚起するなど旅行者自身による二次予防を啓蒙することが大切だ。さらに一歩進んで、渡航先で健康トラブルが発生した場合の措置まで含めた医学がトラベルメディスンだ。
トラベルメディスンが、旅行者の健康状態や身体能力といった内的リスク因子を減らすための医学とするなら、外的リスク因子を減らすのがヘルスツーリズムだ。外的リスク因子とは、移動方法や環境、滞在期間や宿泊施設、滞在中の活動、日本との時差などがあげられる。現在は旅行のスタイルが多様化していて、健康弱者がリスクの高い渡航地へ旅行するケースが増加している。「ヘルスツーリズムは健康弱者をサポートする旅行であり、トラベルメディスンとヘルスツーリズムの必要性は、今後ますます高まっていく。トラベルメディスンとヘルスツーリズムが両輪となって発展していくのが望ましい」と大越氏は話す。
旅行業界は無防備すぎ。経験を踏まえた対策ガイドラインの作成を
医学界とともにトラベルメディスンとヘルスツーリズムを発展させていく一方で、旅行業界全体での感染症への対策ガイドラインの作成も急務のひとつだ、と大越氏は指摘する。というのも、日本人は健康情報に限らずさまざまな情報をメディアに頼るが、メディアにはある一面しか見せないという弱点もある。だがその影響で、今回の新型インフルエンザ報道がひと段落した後も、旅行業界への経済ダメージは大きかった。「たとえば修学旅行が一度とりやめになると、これを復活させるには大きな労力がかかる。2003年のSARSの傷跡もいまだ残るなか、旅行業界はこれまで無防備過ぎた」と大越氏。これからは旅行業界が主体になり、感染症の予防知識を啓蒙したり、継続した情報発信が必要になるという。
そのためにも、業界全体での対策ガイドラインをいまから作成し、次の感染症の流行に備えておくことが大切だ。大越氏は最後に「旅は健康への処方箋。健康リスクを減らして、どんどん旅をすることで健康になれるヘルスツーリズムが発信、造成されることを期待したい」と講演を締め括った。
取材:江藤詩文