「旅行をあきらめない」ドラ息子、要介護者へ夢を届ける-ハンディネットワーク インターナショナル代表 春山哲朗氏(前編)
亡父、春山満氏の医療・介護業界革命からグッドタイム トラベルが生まれるまで
春山 メディアに登場する父をご覧になって、厳しい人間だというイメージを持たれている方もいるかもしれませんが、家庭では至って普通の父親でした。ただ、私は子どもの頃から常に「春山満の息子」として見られることに強い抵抗感があり、とにかく父から逃げたいという思いから、高校生の時に海外への留学を希望しました。でも、それを正直に告げても許しなど出るわけがない。父には「英語でビジネスを学べば一石二鳥だ」などと適当なことを言い、2年間ハワイの短大に留学する許可をもらいました。
父の背中を見ていたので、いずれ経営者になるという考えはありましたが、父がどんな仕事をしていたかも詳しくは知らなかったし、自分が何をやりたいか、業界すら定まっていませんでした。今思えば、父はそれも見透かしていたのではないかと思うのですが。
高校でろくに勉強していなかったので、もちろん短大での成績は最下位。自力で何とかしないと即刻退学です。絶対に出戻りにはなりたくなくて、人生で初めて1日8時間勉強しました。 同級生の多くはハワイ大学へ編入しますが、私は本土に行きたいと考えていました。といっても、その時も自分がやりたいことは見つかっていなかったのですが、幼い頃から父が年3回は旅行に連れて行ってくれていたため、「リゾート」という考え方には興味があり、ホテル学で有名なラスベガスのUniversity of Nevada, Las Vegas(UNLV)を目指しました。当然、ラスベガスならカジノで遊べるだろうという目論見もありました。
こうしてどうにかUNLVへの進学は決まったものの、この時にも卒業後のビジョンはなく、本土に行くこと自体が目標になっていたので、すぐに大学に行く気を失くしてしまいました。さらに悪いことに、アメリカでは留学生は基本的にアルバイトができないのですが、ホテル学では週に数時間のアルバイトが認められていて、単位にもなります。早速日本食店の厨房でアルバイトを始め、授業そっちのけで働きました。チップでもらった数十ドルが大化けすることを夢見てカジノに通う日々。仕送りで家賃を払い、バイト先のまかないでしのぎ、残りはすべて飲み代かカジノにつぎ込むうちに、馬鹿げた話ですが、このまま暮らしていけるんじゃないかと本気で考えていました。
ラスベガスに移って9ヶ月ほど経った頃、いつも通りバイト終わりにカジノホテルのベラージオへ向かい、エントランスからホテルに入ろうとした時、目の前に高齢者介護施設のバスが停まりました。見ていると、いかにもお金を持っていそうなご老人が次々とバスから降り、ホテルに入って行きます。中には点滴の装置を押している方もいました。「何故こんなところに?」と思いつつカジノ場に向かうと、その方達の行き先も同じ。そして全員が自分のお金で、思い思いにゲームを始めたのです。
衝撃でした。父の仕事に興味を持てなかった理由の一つは、介護業界は暗いというイメージがあったことにありました。だからこの時、自分のお金を使って輝く生活を送っているご老人を目の当たりにして、強烈なインパクトを受けたんです。 考えてみると、父は折に触れて「日本の高齢期の価値を変えなければいけない」と話していました。カジノに限らず、最期まで自己責任・自己選択で楽しめる世界を作ることが父のビジネスのモデルだったのだとようやく理解し、初めて父の事業に強く興味を抱きました。
すぐホテルを出て父に国際電話をかけ、是非学ばせてほしい、ラスベガスで何か父の仕事に関わるようなアルバイトをさせてくれと頼みました。無茶な話ですが父は察してくれて、ラスベガスの高齢者施設を自分の目で見てレポートするよう言われました。 そこからは意味もわからぬまま、様々な施設を飛び込みで見て回り続けたのですが、約3ヶ月が経ち、大学の夏休みが終わる頃、絶対に父から学ぶという決意を固めて一時帰国しました。同族は会社に入れない方針だった父に、「親父の元で学ばせてもらいたい。但し自分は会社を継ぐ気は一切なく、3年で学び切って辞める」と頼み、入社を認められました。 起業する人間に大学は不要と思っていたのですぐに退学の手続きを取り、父の元に入りました。仕事上は絶対に敬語を使うこと、雑用係から始めること、実家には住まないこと、という3つの約束が会社で働く条件でした。