ANAの井上慎一社長。コロナ禍で進めた新規事業創出の取り組みが、社員のモチベーション向上と新たな価値の創造に結びついたと語った。
撮影:伊藤圭
コロナ禍の移動制限で、赤字や経営破綻に追い込まれる企業が続出した航空業界。ANAホールディングス(ANAHD)も2020年1〜3月の四半期決算で赤字に転落し、2022年4〜6月期に黒字化するまで、2年以上苦境に陥った。
主軸の航空業を展開するANAは、この危機をどう乗り越えたのか。社員のモチベーションを支え、新規事業創出につなげた取り組みについて、井上慎一社長に聞いた。
(聞き手・高阪のぞみ、湯田陽子)
「雇用は守る」が給与はカット
——パンデミックが始まった当時、社内はどんな状況でしたか。
井上慎一社長(以下、井上):私がグループ企業のPeach Aviation(ピーチ・アビエーション)からANAに戻ってきたのは2020年4月です。
直後に緊急事態宣言が出て、飛行機を飛ばせなくなった。それまでは3期連続で最高益を更新していたというタイミングでした。
当時の片野坂真哉ANAHD社長(現ANAHD会長)が「雇用を守る」という方針をいち早く打ち出しました。希望制の一時休業制度の拡充やその他の休業制度の導入も考えるけれど、何とか耐え忍んでほしいと。現実にはパンデミックの影響が長期化したことで、一時金支給をゼロにし、給与カットも行わざるを得ませんでしたが、雇用は守り切りました。
——やむを得なかったとはいえ、社員のモチベーションに影響したのではないでしょうか。
井上:社員のモチベーションをどう維持・向上させるかは大きな課題でした。
一方、私自身は「いつか見た景色」という思いもありました。Peach時代の経験からです。Peachは就航から3期目で単年度黒字を達成し、創業以来の累積損失も5期目の2016年に解消しました。でもそれまではずっと赤字続きでした。
——ANAの社長就任後、どんなことを心がけましたか?
井上:ANAの社長に就任したのは、赤字真っただ中の2022年4月です。社員を元気づけるには、私が明るくなければいけない。知恵を出せば何とかなると信じていたので、社員には「ここで勝てばより大きなグローバル・エアラインになれる」と言い続けました。
苦しいときに思い出す「チャーチルの言葉」
社長就任後、社員に「ANAはもともと、ヘリコプター2機から始まったベンチャーだった」と語り、挑戦し続けることの大切さを訴えた。
撮影:伊藤圭
——なぜそう信じられたのでしょうか。
井上:イギリスの元首相・チャーチルの言葉"A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty."(悲観主義者はどんな機会があっても困難しか見出さないが、楽観主義者はどんな困難な中にあっても機会を見つけ出す) が源流にあります。
私自身、若い頃から何度も修羅場を経験していて、そのたびにこの言葉を思い出します。
例えば北京駐在時に天安門事件が起きて、人民解放軍の一斉銃撃の現場からほうほうの体で帰ってきたこともあります。ほかにも話せばきりがありませんが、その都度何とか乗り越えてきたので、今回も何とかなるだろうと。
私が社長に就任した2022年は、たまたま創業70周年の年(※)。そんなタイミングだったので、「我々は今で言うベンチャーだった」と社員に伝えました。「何がない、何ができないとメソメソしていたらダメだ」と。
※ANAは1952年創業。第二次世界大戦後、日本ではGHQから民間による航空機の運航が禁止されていた。それが1950年に解除され、その2年後に日本初の純民間航空会社として設立されたのが現在のANA(当時の社名は日本ヘリコプター輸送)。2機のヘリコプターの運航から始まった。
「失敗の定義を変えよう」
——Peach時代の経験はどう生かしたのですか。
井上:Peach時代はとにかく過去のデータが通用しないので、お客さまが何を求めているのかをつかんですぐ実行する。やってみて修正する。その繰り返しでした。それをANAの社員にも奨励しました。
——とはいえ、社員をその気にさせるのは難しかったのでは。
井上:そうですね。みんな失敗を恐れますから。
だから「失敗とは何か」を定義しました。つまり、思いつきや好き好みでやって結果が出ないのは、失敗。でも仮説やシナリオに基づいて挑戦してうまくいかなかったら「失敗とカウントしなさんな」と。シナリオがあれば、どこが間違っていたのか検証できます。そこをチューニングしてもう一度やってみる。
大事なのは心理的安全性を確保することです。どう挑戦すればいいのか方向性が分かっていると、やはり社員は安心します。
ANAでは2021年度から「がっつり広場」と名づけて、新規サービス提案制度を始めました。
審査のポイントはいくつかあります。大前提は「予算ゼロ」。ほかに「バズるか?」「お客さまのインサイトを捉えているか?」「他社にない先進性があるか?」「短期で収益が見込めるか?」「一発モノで終わらないか?」。そこさえクリアしていればいいと言うと、面白い企画が集まってきました。
例えば、エアバスA380型機のチャーターフライト。当時はコロナ禍の規制で、大人気のA380「FLYING HONU」がホノルルに飛べない状況でした。それならばと、成田空港を出発して成田空港に戻ってくる遊覧飛行の発案がありました。実を言うと上手くいくのか不安もあったのですが、とにかくやってみようと。結果、ヒットになった。
ほかにも、整備士が企画したルームシューズ、チェックインカウンター担当社員が企画したグラウラー(ビールを持ち運べるボトル)など、2022年度に集まったアイデアは約700。グラウラーは発案者の社員がクラウドファンディングで資金を集め、デザインして製作して売りました。
「出島」はつくらない
新規事業の創出を手掛けたことのない社員に対しても、価値創造チームが伴走役としてサポートしたという。
撮影:伊藤圭
——人材を生かすも殺すもマネジメント次第とも言われます。
井上:それほど大上段に構えてはいませんが、給与を減らすという無理を強いているなかで、せめて仕事は楽しくやってもらいたかった。
「がっつり広場」は参加の障壁を低くするため、あえてアイデアコンテストやサークルのようなノリにしました。凝った企画書ではなく、140字以内にまとめたもので構わない、と。
——応募した社員は、通常業務をしながら新企画も担当するのですか。
井上:そうです。新規事業の創出に取り組むとき、よく「出島」をつくりますよね。部署をつくってそこに集めた有能な人材で、新しい事業を創出するという方法です。
ただ、それだと新規事業部門と日々の業務を進める部門の間で、壁や確執が起きてしまい、なかなかうまくいかないとも言われます。
ですので、ANAでは、オペレーション部門の社員がイノベーションの担い手になることを目指し、それを「二刀流人材」と名づけました。
パンデミックにも強いビジネスをつくる
——「航空一本足からの脱却」にも力を入れました。代表例にはどんなものがありますか。
井上:もともと、パンデミックが始まった当時の片野坂社長が打ち出した方針で、パンデミックに弱いという航空事業の弱点を補うことが狙いでした。
飛行機は毎日乗るものではないので、お客さまと365日お付き合いできていないわけです。「日常」にも接点をつくり、ビジネスのレジリエンスを高めていく。
事例としては、大きく2つあります。1つは、プラットフォーム事業を手掛けるグループ企業ANA X(エーエヌエー・エックス)が立ち上げた「ANA Pocket」という新サービスです。
飛行機での移動だけでなく、徒歩・電車・自転車・自動車、すべての移動についてマイルが貯まるという世界初のサービスです。2023年5月にリニューアルした「ANA Pay」と連動させることで、そのシナジーが出つつあります。
ANA Pocketは脱炭素を意識して、徒歩が最もポイントが貯まるようにしているのですが、Z世代の反響が大きい。
もう1つは、ANAが立ち上げた「ANA Smart Travel」という新サービスです。日常の接点づくりは整備されてきたので、非日常の航空事業のデジタル化をと、始めました。搭乗券の予約・購入から空港までの乗換案内、チェックイン、搭乗券の発行など、スマートフォンですべて「おもてなし」する世界をつくりました。
「社員の人生は社員のもの」
新しい価値を創造するためには、限られた個人の知ではなく「集合知が欠かせない」と語った。
撮影:伊藤圭
——人的資本経営の重要性が言われますが、新しい価値を創造し続けるには「人」が重要です。経営者として心がけていることは。
井上:社員の人生は社員のものだと思っています。例えば、上司の言う通りにして人生めちゃくちゃになったら後悔しますよね。だから、「社長がそう言うから」と素直に従う人を見ると不安になります(笑)。
——舵取りが難しくなりませんか。
井上:いや、ウェルカムです。VUCA(※)時代は変数が多く、限られた個人の知だけではカバーし切れません。
上の立場の人が支配的な指示をすると、せっかくの多様な人材の個性が死にますよね。リーダーの価値観に合わせようとして同じ考え方や発想しか集まらず、空白がたくさんできてしまう。そのほうが危ないんです。
※VUCA(ブーカ):Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の4つの単語の頭文字をとった造語。
——サステナブルではないと。
井上:そうです。新しい価値を創造するには、自分の頭で考える人が不可欠。いろいろな意見を言ってもらったほうが私はカンファタブルです。
経営者が最後に責任を持って取捨選択し、判断すればいいだけです。その判断を最善のものにするためにも、集合知が欠かせないと思っています。
井上慎一(いのうえ・しんいち)神奈川県藤沢市生まれ。早稲田大学法学部卒、1990年全日本空輸(ANA)入社。北京支店ディレクター、LCC共同事業準備室室長を経て、2011年にA&F・Aviation(のちのPeach Aviation)CEOに就任。2020年ANA専務執行役員、2021年ANA X社長、2022年4月ANA社長に就任。